読みたい本が多すぎる

読みたい本が多すぎる。されど人生は短い。

『おくることば』『くちぶえ番長』重松清 5冊 / 23日目

加藤シゲアキ『オルタネート』【過去記事】の文庫解説が重松清だったので、つぎ読む「新潮文庫の100冊」も重松清にする。今年は(とゆうか毎年なんだが)2冊入っている。加藤シゲアキも2作入っていたが、つまらない興味のない作家ほど冊数が多くて、げんなりする。ひとり1冊まで、てことにしよーよー。まあ、加藤シゲアキはそこそこ愉しめたのだけれど。自分からは手に取らないけど読んでみたら良かった、て発見があるから、文庫フェアを片っ端から読むのは愉しい。冊子の順番通りに読む!とか云っていながら、横道に逸れてばかりいるけれど。

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『息吹』テッド・チャン(大森望訳)

テッド・チャン『息吹』(大森望訳 / 早川書房 / 2019.12)が文庫になると知り、積まれていた単行本を本棚の奥から引っ張り出してきて、慌てて読む。だってわざわざ表紙の硬い本を初版で買って、読まない内に安価な文庫が出ちゃうなんて、悔しいじゃないか。よくあることではあるけれど。だいじに読もうとおもってるとね、そのうちに機会を逸して、気持ちのまた盛り上がってくるまで、しばしの時間を要するのですよ。それまでの間、本は静かに書棚の内で熟成され、来るべきときを待つのです。本は腐らないから良い。否、だからこそ厄介だ、とも云えるのだけれど。

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『チュベローズで待ってる AGE22 / AGE32』加藤シゲアキ 3冊 / 14日目

加藤シゲアキ『チュベローズで待ってる』を読む。新潮文庫(2022.6)の100冊。『オルタネート』【過去記事】が良かったので、もう一作読んでみようと手に取る。

 

読みやすいし(何しろ子どもと遊びながらでも読めた)、疾走感もあって一気に読めた。だからおもしろかったんだろうとおもう。が、どうも引っ掛かりに欠けるとゆうか、そこもうちょっと書いてよ、の連続で物足りなさが募る。前篇は、ホストと就活を軸にすすむが、お仕事小説としても、青春小説としても、如何にも中途半端だ。

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『ハロウィーン・パーティ』アガサ・クリスティー(中村能三訳)

アガサ・クリスティーハロウィーン・パーティ』を読む。中村能三訳。ハヤカワ・クリスティー文庫(2003.11)。昨年のハロウィーン前後に一度読んだが、順番が回ってきたので改めて読む。前回はポアロ世界にまだ慣れておらず、話のややこしさもあって途中で迷子になったが、今回は愉しく読めた。

 

事件の裡には過去のコールドケースが四件くらい隠されている。以前に殺人現場を見たことがある、と吹聴していた女の子が殺される、と云うポアロのなかでもとりわけ痛ましい事件で、『死者のあやまち』と『マギンティ夫人は死んだ』を重ね合わせたようなお話、といったところか。女の子には虚言癖があり、真実かどうかの疑わしいなかポアロは捜査を進める。信頼できない語り手ならぬ、信頼できない被害者、目撃者である。


ポアロもクリスティーも年を重ね、シリーズもこの後期のころは少し捻った展開が多く、いろいろ模索していたようにおもわれるが、この小説は原点回帰!と云った印象で、正統なミステリとしての味わいがある。やはりポアロは関係者の証言を聞いて回って、過去を掘っていく話が合っている。


原題は“Hallowe'en Party”。1969年の作で、クリスティー最晩年のポアロだ。初訳は1971年と云うからずいぶん経つが、読んでもさほど古さはかんじなかった。近く新訳が出るらしい。こんどは山本やよい訳。『オリエント急行の殺人』や『五匹の子豚』など、代表作の翻訳を手掛けているが、さて本作はどうか。児童書ではすでに昨年、本作の翻訳を出されているが、大人向けのクリスティー文庫は、まさか同じじゃないよね? 出たらまた読む。


近々映画にもなるらしい。というか、映画の公開に合わせて新訳が出るのであろう。ケネス・ブラナーポアロで、タイトルは『ベネチアの亡霊』。てベネチア要素あったっけ? イギリスの庭園が重要なアイテムなんだが。庭園文化のルーツはイタリアだから、まあいいのか。ブラナー版ポアロは『オリエント急行殺人事件』を映画館で観て、まあ、あれはあれで良かったのだけど、いまはデヴィッド・スーシェのポワロを観ちゃってるから、もうほかは違和感しかないかも。そのスーシェのポワロでも近々本作の再放送があって愉しみだ。て気づけば僕も『ハロウィーン・パーティ』の箱庭に閉じ込められてしまっているのである。

 

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『ミチクサ先生』伊集院静

7月某日

 

加藤シゲアキ『オルタネート』【前回記事】の感想を妻にプレゼンしてみたところ、

──読みたいな。と妻は云った。いまは一年くらい前に買ったイーライ・ブラウン『シナモンとガンパウダー』(三角和代訳)をノロノロ読んでいるらしく、まだ直ぐには読めない、とのことだった。いつでも読めるよう、手近な本棚へ置いておくことにする。

 

7月某日

 

伊集院静『ミチクサ先生』を読む。

去年、戦争のはじまった日に生まれた子どものひとの名前は、干支に因んで名付けたのだが、明治時代の物理学者と同じ名でもあるから、子どものひとを紹介する機会などがあると、

──あの物理学者の? と云って話が広がったりする。子の名が相手の教養の度合いを知る、ひとつの物差しにもなる。

この『ミチクサ先生』を教えてくれたのは僕の雇い主の先生で、子どもの誕生とともに名前も報告したら、

──日経新聞の連載小説で読んで、漱石の話なんだけど、寺田寅彦もよく出てくるんだよ、と云っていたのが記憶に残っていて、以来ずっと気になっていたのだった。さいきん文庫が出て、さっそく読んでみる。

 

僕は漱石の熱心な読者ではないが、折にふれ読んできたし、いつかは通して読まなければとおもっている。奇妙な親しみをかんじるのだ。

互いに江戸っ子である、と云うことと関係しているのかもしれない。僕も東京で生まれ、ずっと東京で暮らしている。地方へ住んだことはない。その点は漱石とちがっている。

長く学問をしていた、と云う点は共通しているかもしれない。それと、どこかで田舎者を莫迦にしている、というあたりも。

坊っちゃん』は好きだ。『三四郎』や『それから』も良い。高等遊民に憧れがあるのかもしれない。『それから』をはじめて読んだころは、代助と似たような暮らしをしていて、痛切にかんじたものだった。いま読むと何をかんじるだろうか。

この小説を読んでいると、また漱石を読み返したくなる。

 

小説は漱石文学へのオマージュにあふれている。ついでに云うと、司馬遼太郎坂の上の雲』への敬意も。

ただ、司馬さんは明治の明るさの影としての昭和の暗さ、もしっかり書いていたけれど、この小説は明るさのみが強調されている。

いまはそういう陽気さが求められる時代なのかもしれず、あるいは発表媒体(日経新聞連載)の影響もあろう。それにしても、ここまで文章のレヴェルを下げ、読み易くする必要があったのだろうか。

エピソードもサーヴィス精神に溢れている、と云うよりは読者へ媚びているようにおもわれ、雑な云いかたをすれば、日経なんか読んでるオジサン連中の好みそうな話、ばかりである。

 

以前、司馬さんの文章で読んだが、この国には〈友情〉という概念が長らく無かったそうで、それは近代になって輸入されたものであるらしい。現代でさえ、純粋なカタチの友情ってあるのだろうか、と友だちのいない僕などはおもう。

だからか、この小説の時代、と云うよりは子規や漱石周辺の〈友情〉をめぐる関係性は、この国の史上でも極めて特異な風景だったのではないか。

少なくとも現代(を舞台にした物語)で、ここまでカラッとした関係性の有り様を、こんなに真っ直ぐに描くことは難しいようにおもえる。いま描くには、幾らかの手続きを要するであろう。

時代小説がいま良く書かれ読まれる(直木賞候補なんか時代小説ばっかじゃん)背景には、そういった事情があるのかもしれない。

過去という舞台設定が、我々の読みたい物語を提供してくれる。作られた〈日本人らしさ〉を表現できるのだ。

それは工夫というよりも、小細工のように僕にはおもわれ、素直に支持できないのだけれど、まあそれも含めてのフィクション、と云うことなのかもしれない。

万人が読めて愉しめる、と云うのもだいじではあるが、もうちょっと教養を重んじてもいいようにおもう。新聞小説から教養を底上げしていく、といった気概が、もっとあってもいいのではないか。

少なくとも漱石は当時の新聞でそれを実践していたのだ。もうそんな時代ではない、教養なんて古い、なんてことは重々承知しているけれど。

 

話が逸れた。漱石である。

この評伝は、子規や寺田寅彦といった周辺人物を、ときには漱石よりも中心に据え、あれ?これ漱石が主人公の小説だったよね?とおもわせるような、周りをウロウロ道草しながら、漱石という人物へ迫っていく。

作者は『ノボさん』と云う小説を書いていて、僕は読んでいないけれど、或いはその執筆時に仕入れたネタを使い回し再構築することで、多面的に描いているのかもしれない。

 

漱石も愛した落語のリズムが会話によく活かされている。それは漱石文学の呼吸でもあり、オマージュが成功している、とも云える。とにかくテンポが良くサクサク読める。

僕は五六年前から数年間、東京の寄席へ足繁く通ったが、それは漱石や太宰が落語をよく聴いていた、と云うのをどこかで読んで、日本の近代文学と落語の関わりを知りたいとおもったのがきっかけであった。

 

落語ともうひとつ、シェイクスピアの影響も確認することができた。

シェイクスピアはやはり一度、ひととおり読んでおかなければならない、と改めておもわされる。

漱石も沙翁をよく読んでいたし、いまコツコツ読んでるアガサ・クリスティーも、シェイクスピアをよく引用している。

文学(小説)を遡っていくとイギリスに辿り着き、イギリス文学をわけ入っていくとシェイクスピアへ行き着く。

日本語による小説=近代文学を作り直した漱石と、近世に英語でそれをやったシェイクスピア。新しい世界をことばによって創ったふたりを、読み比べてみるのも面白いかもしれない。

いま読むなら、やはり松岡和子訳であろうか。

 

さいごに、著者は直木賞の選考委員を長くつとめており、さきに読んだ加藤シゲアキ『オルタネート』の選評【リンク】を、序でだから読んでみる。

概ね僕の考えとおなじで、安堵する。

僕は森見登美彦『熱帯』が取れなかったとき以来、直木賞には絶望しているのだけど、著者はそのときの数少ない理解者だったと記憶している。このひとの〈読み〉は信頼できる、と。その考えは間違っていなかったようだ。

それに引き替え、浅田次郎林真理子の評はほんとうにポンコツ以下で、こういう大きな賞に影響力を持っていることに絶望せざるをえない。

 

 

 

『オルタネート』加藤シゲアキ 1冊 / 3日目

不定記、と云いながら良いペースで書けている。つづいていくと、いいな。


7月某日


新潮文庫の100冊を読む。読まずにまごまごしていると、機会を逸するのでまずは一冊、手をつける。

例年は、気になった本を野放途に読んでいっていたが、今年からブログに経過を書いていく手前、一先ずは冊子に掲載された順に読んでこうとおもう。

と云ってもすぐ気が変わるのだけれど(どころか、新潮文庫の100冊以外だって、気にせず読んでいくんだぜ)。


新潮文庫の100冊には、いちおうのジャンル分けがあって、「恋する本」「シビレル本」「考える本」「ヤバイ本」「泣ける本」となっている。

ここ数年は順序もふくめてジャンル分けそのものは替わっていないが、年によっては「ヤバイ本」だったものが「泣ける本」に替わっていたりして、けっこういい加減である。

「シビレル」とか「ヤバイ」とか正直よくわからない。「泣ける」って最悪だな、とおもう。

そう考えると「恋する」なんてまずまずまともではないか。


その「恋する本」からスタートする。

トップバッターは加藤シゲアキ『オルタネート』。新刊だ。

いきなりのタレント作家かよお、とゲンナリする。今年の「新潮文庫の100冊」は、もう読まなくていいかな。。と思わせるに充分な破壊力、と云っても過言ではない。

もちろん、作家と作品に非はない、なんてことはわかりすぎるほどわかってるのだが、敢えて愚痴を吐きたくもなる。だってジャニーズ事務所だよ!?それも3冊も入ってるんだよ!?何らかの不当な圧力が働いたのでは、と勘繰りたくなる。

とは云え、読む。


はじめて読む作家である。(上では腐していた癖に)実はタレントとしての彼のことも、あまりよくは知らない。

以前『100分de名著』の夏休みこども向けスペシャルで司会をしていたのと、ドラマで金田一耕助を演っていたのを観た(『悪魔の手毬唄』)くらいで、いずれもあまり好い印象はもたなかった。だから小説もどうなんだろ、と疑問におもいながら読む。


妻は以前『傘を持たない蟻たちは』と云う短篇集を一冊読んだことがあると云っていたので、感想を聞いてみたところ、気持ち悪くてダメだった、と云うことであった。

妻は〈怖いこと〉が苦手で、それもホラーに限った話ではなく、どんな物語でも、或る種の〈危機〉、もっとも代表的なのは〈死〉だが、そういう〈怖いこと〉に直面すると、厭になって読むのをやめてしまったりする。

所謂〈物語のトンネル〉と云うやつで、僕のような本読みは、その先へ進めば拓ける(バッドエンドの場合ももちろんあるが、いずれの結末でも、いま通っている隧道は抜けられる)と知っているから、臆せずさきへ進むのだが(だって抜けたさきを見たいじゃないか)、妻に云わせればそもそもそんなトンネルは通りたくないらしい。


だから『オルタネート』もそういう〈怖い〉小説なのかと身構えて読んだが、全然そんなことはなかった。

青春小説である。

三者の物語が交互に展開する。料理、音楽、SNSと、それぞれに軸があって、話が進むにつれ三つが絶妙に絡んだり絡まなかったりする。

構成もさることながら、その繋げすぎない按配が見事で、巧い。

タレントとおもって舐めていたが(ごめんなさい)、かなり読みやすくて恐れ入る。

説明は全体的にぎこちないし、とくに風景の描写なんかとってつけたようで興が醒めるものの、それにしたってここまで読みやすい文章はなかなか書けるものではない。

小説にとって読みやすさは必ずしも重要ではないが、ひとつの特長にはなりうる。とくにいまのような、あまり本の読まれなくなっている時代では、大きな利点と云える。やるじゃん、ジャニーズ。


「オルタネート」とは、架空の高校生限定SNSだ。ただ、タイトルになってるわりには、あまり重要ではないように僕にはおもえた。中心というよりは背景として存在しているようなかんじ。

Wikipediaを読んでいたら、直木賞の選考ではこのSNSの設定の甘さが問題視され、結果的に受賞を逃した、と云うようなことが書かれてあった。

SNSの設定なんて、現実世界でもコロコロ変わるし、そんなに強固に描いてしまうと、それこそあっという間に古びていってしまいそうだけれど。

そんな設定云々よりは、既に当たり前のツールとしてそれが在る、てことが大事で、オルタネートの存在が、小説世界とそこで過ごす彼らの生活に、確たる実在感をもたらしているように読める。


因みにだが、このときの直木賞の受賞作は何だったのだろう、と興味をおぼえ記録を見たら、西條奈加『心淋し川』だった。

ああ、読んだよそれ。職場の先輩が呉れて。

これに授賞しちゃう直木賞ヤベえな、と思ったのを憶えている。むしろそのことくらいしか憶えていない。これがホントの「ヤバイ本」ではないか。

それよりかは『オルタネート』のほうが断然良い、と僕はおもう。

だから、高校生直木賞を受賞したのは、作者としては本家を貰うよりずっと嬉しかったんではないか。

登場人物たちの言動は、いかにもその年ごろの子たちっぽく描かれている、と僕には読めるが、それが同世代の読者にとって、どれほどリアリティのある話なのか、と云うのは正直、僕にはよくわからない。

高校生自身の選ぶ賞がこの小説に与えられた、と云うことは、人物たちの心象描写は同世代の読者にとっても充分な説得力があった、と云うことを意味するのではないか。

本家の選考委員の小父さん小母さんがゴチャゴチャ云うより、余程価値がある。と小父さん読者である僕はおもう。何とも痛快ではないか。


或る世代特有の生きづらさを、この小説は描こうとしているようにおもう。

現代的なことばだと、親ガチャ、などと云われる。運命、あるいは遺伝子などで置き換えてもいい。その時代時代によって要因はさまざま云われてきたけれど、結果として背負わされる辛さは、いつの世も共通なのかもしれない。

でもそれらは変えていくことができるし、自分の人生は自らの手で切り拓いてゆくことができる。努力するしないに関わらず、だ。

この小説は、作者から若い世代へ向けたエール、力強いメッセージなのかもしれない。


一冊目から思わぬ良作に当たって気分がいい。自分からはゼッタイ手に取らなかった小説で、こういう出逢いがあるから「新潮文庫の100冊」(というか広くは読書全般)は愉しいのだ。

加藤シゲアキはまだあと2冊もある。つづけて読む。

 

新潮文庫の100冊を妻の代わりに(ときどきいっしょに)読む 0冊 / 0日目

日記は無理でも、週記くらいなら、とおもったけど、それも自信がないので不定期に、てことで気が向いたときに不定記を書く。


6月某日


妻は本を作る仕事をしているが、普段あまり本は読まない。

読めない、と云ったほうが正しいのかもしれない。育児の負担はどうしたって母親のほうが大きく(申し訳ない)、加えて仕事もしているとなると、一日の内の僅かな余暇に本を手に取る余裕など、時間的にも体力的にも、精神的にもない、と云うことになる。

それでなくったって、仕事で膨大な量の、本以前の文章を読まされている。仕事以外でわざわざ本など、読む気にならないのかもしれない。

大学の頃に人文地理学という講義で、牛を生産している地域では豚が、豚を生産している地域では牛がよく食べられる、という話を聞いたことを思い出す。本はあくまで売り物で、自ら消費するのには抵抗があるのかもしれない。

或いは、騎手の武豊は人参が苦手だという話を聞いたことがある。人参は競走馬の餌として認識されており、自分が食べるものではない、ということらしい。妻も似たようなもので──と、これはちょっと喩えがちがうか。


新潮文庫の100冊」を、2017年くらいからコツコツ読んでいる。

時季になると書店に置かれる冊子を貰ってきて、読んでいない本を順に読んでいく。

特に益はないが、自分からはゼッタイ手に取らなかっただろう本が面白かったり、と云う発見があったり、つづけていると読んだ本の冊数が段々と増えていって、ニヤニヤする。

そのうちコンプリートできるかな、と思いながら、何冊か読むと飽きてべつの本を読んだりしているうち、年が改まって何冊か入れ替わり、毎年半分くらい読んでる状態がここ何年かつづいている。


昨年、育休中だった妻が、私も「新潮文庫の100冊」読んでみようかな、と云った。

冊子を妻の分も貰ってきて、星新一ショートショートを読みはじめたものの、復職が決まって忙しくなり、読めなくなって辞めてしまった。僕も妻といっしょに読もうかなとおもっていたが、歩調を合わせるように昨年はほとんど読まずにべつの本ばかり読んでいた。


今年は、代わりに(ときどきいっしょに)読んでいこうかとおもっている。

先日書店へ行ったら、ちょうどコーナーが設営されていた。冊子をパラパラとその場で眺めて、さいしょの何冊かと、それからプレミアムカヴァーで読んでいない本を幾冊か買って帰る。

 

 

 

無料の冊子、さいきんはkindleでも無料でDLできる。

複数の時計

ポアロ@住宅街!

隣近所を巡りながら、噂話を聞いて歩く。この街、なんか変じゃない!?

といっても動き回るのは警部と諜報部員で、ポアロは安楽椅子に座り小説を貪り読んでいるのだけど。そのポアロの口を借りて展開される推理小説論がすこぶる愉しい。

大仰な事件の仕掛けと、それの解決される顛末は、古今東西の小説で繰りひろげられる、奇妙奇天烈なトリックを嘲笑うかのよう。

晩年のクリスティーは、自ら創りあげたミステリの枠組みそのものを破壊しようと腐心していたようにおもえる。

枠の、本の外側へ!

ポアロだって時には外へ出たくなるのだ。

 

アガサ・クリスティー『複数の時計』

Agatha Christie, The Clocks, 1963

橋本福夫訳 / ハヤカワ・クリスティー文庫 / 2003

アガサ・クリスティー失踪事件

十年日記、と云うのを手書きでつけている。その日遭ったことを、単簡に一行綴るだけだが、書きためていくと去年の今日、何をしていたのか知れて愉しい。ほとんどがその日何を読んだか、なのだけれど。
その日記によると、アガサ・クリスティーを読みはじめて一年ほどが経つ。さいしょに読んだのは短篇「料理人の失踪」で、デヴィッド・スーシェ主演のドラマ『名探偵ポワロ』(の再放送)を観だしたのがきっかけであった。ドラマの第一話が「コックを捜せ」で、放送回に併せて原作を順に読んでいって、はじめのうちは短篇が中心で、それから長篇も読むようになって、余裕ができると発表順に読んでいって、残すは数冊、というところまできている。おわっちゃうのが寂しい。
まあポアロが終わったらトミー&タペンスもミス・マープルも、ノンシリーズもまだまだたくさんあって、別訳や再読の愉しみもあり果てはないのだけれど。
大江健三郎は師・渡辺一夫に「ひとりの作家を二、三年集中的に読むと、その作家のことがよくわかってくる」と助言され実践したそうだから、ぼくもまだまだクリスティーを読まねばなるまい。

と云いながら今回読むのはクリスティーだがクリスティーでない。
ニーナ・デ・グラモン(山本やよい訳)『アガサ・クリスティー失踪事件』。
「料理人の失踪」からはじまって、一年越しの〈失踪〉繋がり、なんである。

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言語の本質

SNSでユルい交流のある読書の先輩で、日ごろは主に海外文学を読まれているのが、めずらしく新書を読んでおられたのをお見かけし、興味がわく。
何でもたいへんな売れ行きらしく、発売間もないのに手元にやってきたのは再版であった。
言語とは何か、子どもは、AIは、どうやって言語を習得しているのか。あるいはおなじことだが、言語はどう進化したのか。
ちょうどいま我が家には、言語を習得しつつある子どものひとがいて、日々新しいことばを、言えたり間違えたりしていて飽きない。いま読めばいっそう愉しめるはず、とさっそく手に取る。

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