読みたい本が多すぎる

読みたい本が多すぎる。されど人生は短い。

『おくることば』『くちぶえ番長』重松清 5冊 / 23日目

加藤シゲアキ『オルタネート』【過去記事】の文庫解説が重松清だったので、つぎ読む「新潮文庫の100冊」も重松清にする。今年は(とゆうか毎年なんだが)2冊入っている。加藤シゲアキも2作入っていたが、つまらない興味のない作家ほど冊数が多くて、げんなりする。ひとり1冊まで、てことにしよーよー。まあ、加藤シゲアキはそこそこ愉しめたのだけれど。自分からは手に取らないけど読んでみたら良かった、て発見があるから、文庫フェアを片っ端から読むのは愉しい。冊子の順番通りに読む!とか云っていながら、横道に逸れてばかりいるけれど。

 

1冊目『おくることば』(2023.6)は新刊だ。ここ二、三年に書かれたエッセイ、小説などが纏められている。著者は早稲田大学でゼミを持っており、コロナ禍の学生たちの生活が、教師であり作家でもある視点から描かれる。


けっこう忘れてるな、と云う感想がまず浮かぶ。わずか三年前、どころか、このウイルス禍はまだ現在進行形なのだが、そういえばあったねそんなこと、て話がけっこう在って、驚く。いや、忘れているというよりは、立っている場所によって、見える景色はこんなにもちがうのか、と云うのがより実感に近い。


著者は1963年生れで、ことし(つまりは本作刊行時)60歳である。彼の教え子たちは大学生で、つまりは20歳そこそこであろう。僕はいま40歳で、作者とも学生たちとも、20年ほど歳が離れている。ついでに云うと、僕の子どもはことし1歳で、学生たちとはやはり20年、歳が下だ。それほど隔たっていると云うことは、どうやら僕はこの本の読者として、もっとも遠い場所に位置している、と云うことなのかもしれない。同じものを見ていても、受けとめかたは全然ちがう。そのことに愕然とする。


収録作中、ほとんど唯一の小説「反抗期」がよかった。泣けるんだよね。重松清は泣けるメソッドを心得ている。けど、泣けるから良い、とはならないところが文学(というか物語全般)のおもしろいところだし、「泣ける」てのは危うい、と著者の作品を読むたび(と云うほど読んでないけど)いつもおもう。それが何にせよ、ひとつの感情に引き摺られるのは危うい。


一方で、小説とおなじトーンで語られるエッセイは驚くほど浅はかで、ほとんど何も言っていない。大学のゼミではジャーナリズムも教えているらしいが、この批評性の無さでだいじょうぶかいな、と不安になる。文体がテーマに合っていないようにおもえる。


2冊目の『くちぶえ番長』(2007.6)は小説だが、初出は「小学四年生」と云う雑誌(懐かしい!)の連載で、作中人物と同世代の読者へ向け書かれた児童文学だ。2005~2006年にかけて連載され、書き下ろしの章も追加されているそうだ。著者42、43歳ごろの作品。


子ども向けに書かれているとはいえ、僕には当時読んでもたぶん届かなかっただろうな、とおもう。いま読めば感動できる。ノスタルジーはあまり感じない。新しい、とおもえる人物はひとりも出てこない。なのに感動してしまう。何とも腹立たしい。


時代劇的な痛快さがある。ある種の活劇と云っていい。それでおもったのだが、この作家は現代社会への批評を、子どもの集団へ置き換えて語るのを主題としているのではないか。古典芸能や時代小説、あるいはファンタジーなんかでよくある手法だ。おとなが子どもの頃を振り返って郷愁に浸る、と云うのも一種のファンタジーと云えるであろう。


昭和の終わりのバブル期に、軽薄体と云うのが勃興した。それはサブカルチャーやロックと融合して、文学の世界でも今やひとつの潮流を成すまでになった。重松清が子どもの世界を語るうえで用いている文体も、そのルーツは軽薄体にあるのではないか。ライターとして世に出たのがバブル期であったことを考えれば、そう云う視点で彼の著作を読んでみるのも面白いかもしれない。


さきに読んだ『おくることば』のエッセイを、文体が合っていないのでは、と指摘したが、軽薄な文体は現在進行形の問題を批評するには、やはり非力なのかもしれない。昭和軽薄体を生み出し、かつそれらを読んで踊ったワカモノたちが、いま時を経て社会で重責を担う立場となり、その彼らの語ることばが、恐ろしく軽薄で無責任におもわれるのも、文体と無関係ではないようにおもえる。また、そんな浅いことばに引き摺られて、社会そのものもどんどん脆弱になっていくのを見るのは辛く、切実だ。そろそろ世界を語る文体を取り戻す、或いは新しく創りださなければならない。そんな時代に入ってきているようにおもう。

 

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