読みたい本が多すぎる

読みたい本が多すぎる。されど人生は短い。

『ミチクサ先生』伊集院静

7月某日

 

加藤シゲアキ『オルタネート』【前回記事】の感想を妻にプレゼンしてみたところ、

──読みたいな。と妻は云った。いまは一年くらい前に買ったイーライ・ブラウン『シナモンとガンパウダー』(三角和代訳)をノロノロ読んでいるらしく、まだ直ぐには読めない、とのことだった。いつでも読めるよう、手近な本棚へ置いておくことにする。

 

7月某日

 

伊集院静『ミチクサ先生』を読む。

去年、戦争のはじまった日に生まれた子どものひとの名前は、干支に因んで名付けたのだが、明治時代の物理学者と同じ名でもあるから、子どものひとを紹介する機会などがあると、

──あの物理学者の? と云って話が広がったりする。子の名が相手の教養の度合いを知る、ひとつの物差しにもなる。

この『ミチクサ先生』を教えてくれたのは僕の雇い主の先生で、子どもの誕生とともに名前も報告したら、

──日経新聞の連載小説で読んで、漱石の話なんだけど、寺田寅彦もよく出てくるんだよ、と云っていたのが記憶に残っていて、以来ずっと気になっていたのだった。さいきん文庫が出て、さっそく読んでみる。

 

僕は漱石の熱心な読者ではないが、折にふれ読んできたし、いつかは通して読まなければとおもっている。奇妙な親しみをかんじるのだ。

互いに江戸っ子である、と云うことと関係しているのかもしれない。僕も東京で生まれ、ずっと東京で暮らしている。地方へ住んだことはない。その点は漱石とちがっている。

長く学問をしていた、と云う点は共通しているかもしれない。それと、どこかで田舎者を莫迦にしている、というあたりも。

坊っちゃん』は好きだ。『三四郎』や『それから』も良い。高等遊民に憧れがあるのかもしれない。『それから』をはじめて読んだころは、代助と似たような暮らしをしていて、痛切にかんじたものだった。いま読むと何をかんじるだろうか。

この小説を読んでいると、また漱石を読み返したくなる。

 

小説は漱石文学へのオマージュにあふれている。ついでに云うと、司馬遼太郎坂の上の雲』への敬意も。

ただ、司馬さんは明治の明るさの影としての昭和の暗さ、もしっかり書いていたけれど、この小説は明るさのみが強調されている。

いまはそういう陽気さが求められる時代なのかもしれず、あるいは発表媒体(日経新聞連載)の影響もあろう。それにしても、ここまで文章のレヴェルを下げ、読み易くする必要があったのだろうか。

エピソードもサーヴィス精神に溢れている、と云うよりは読者へ媚びているようにおもわれ、雑な云いかたをすれば、日経なんか読んでるオジサン連中の好みそうな話、ばかりである。

 

以前、司馬さんの文章で読んだが、この国には〈友情〉という概念が長らく無かったそうで、それは近代になって輸入されたものであるらしい。現代でさえ、純粋なカタチの友情ってあるのだろうか、と友だちのいない僕などはおもう。

だからか、この小説の時代、と云うよりは子規や漱石周辺の〈友情〉をめぐる関係性は、この国の史上でも極めて特異な風景だったのではないか。

少なくとも現代(を舞台にした物語)で、ここまでカラッとした関係性の有り様を、こんなに真っ直ぐに描くことは難しいようにおもえる。いま描くには、幾らかの手続きを要するであろう。

時代小説がいま良く書かれ読まれる(直木賞候補なんか時代小説ばっかじゃん)背景には、そういった事情があるのかもしれない。

過去という舞台設定が、我々の読みたい物語を提供してくれる。作られた〈日本人らしさ〉を表現できるのだ。

それは工夫というよりも、小細工のように僕にはおもわれ、素直に支持できないのだけれど、まあそれも含めてのフィクション、と云うことなのかもしれない。

万人が読めて愉しめる、と云うのもだいじではあるが、もうちょっと教養を重んじてもいいようにおもう。新聞小説から教養を底上げしていく、といった気概が、もっとあってもいいのではないか。

少なくとも漱石は当時の新聞でそれを実践していたのだ。もうそんな時代ではない、教養なんて古い、なんてことは重々承知しているけれど。

 

話が逸れた。漱石である。

この評伝は、子規や寺田寅彦といった周辺人物を、ときには漱石よりも中心に据え、あれ?これ漱石が主人公の小説だったよね?とおもわせるような、周りをウロウロ道草しながら、漱石という人物へ迫っていく。

作者は『ノボさん』と云う小説を書いていて、僕は読んでいないけれど、或いはその執筆時に仕入れたネタを使い回し再構築することで、多面的に描いているのかもしれない。

 

漱石も愛した落語のリズムが会話によく活かされている。それは漱石文学の呼吸でもあり、オマージュが成功している、とも云える。とにかくテンポが良くサクサク読める。

僕は五六年前から数年間、東京の寄席へ足繁く通ったが、それは漱石や太宰が落語をよく聴いていた、と云うのをどこかで読んで、日本の近代文学と落語の関わりを知りたいとおもったのがきっかけであった。

 

落語ともうひとつ、シェイクスピアの影響も確認することができた。

シェイクスピアはやはり一度、ひととおり読んでおかなければならない、と改めておもわされる。

漱石も沙翁をよく読んでいたし、いまコツコツ読んでるアガサ・クリスティーも、シェイクスピアをよく引用している。

文学(小説)を遡っていくとイギリスに辿り着き、イギリス文学をわけ入っていくとシェイクスピアへ行き着く。

日本語による小説=近代文学を作り直した漱石と、近世に英語でそれをやったシェイクスピア。新しい世界をことばによって創ったふたりを、読み比べてみるのも面白いかもしれない。

いま読むなら、やはり松岡和子訳であろうか。

 

さいごに、著者は直木賞の選考委員を長くつとめており、さきに読んだ加藤シゲアキ『オルタネート』の選評【リンク】を、序でだから読んでみる。

概ね僕の考えとおなじで、安堵する。

僕は森見登美彦『熱帯』が取れなかったとき以来、直木賞には絶望しているのだけど、著者はそのときの数少ない理解者だったと記憶している。このひとの〈読み〉は信頼できる、と。その考えは間違っていなかったようだ。

それに引き替え、浅田次郎林真理子の評はほんとうにポンコツ以下で、こういう大きな賞に影響力を持っていることに絶望せざるをえない。